ピカソについて残された逸話と真実!子どもの名前の意外な秘密とは?

ピカソ


人類史上最も多作な天才画家「ピカソ」。一度見たら忘れられない特徴的な絵を描くピカソとは一体どのような人物だったのでしょうか?

今回はピカソの逸話や名前の秘密、不思議なキュビスムのきっかけや名言などについてご紹介します。
 
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ピカソ

①ピカソとは

パブロ・ピカソは1900年代前半から後半にかけて活躍したスペインの芸術家です。彼はフランスを拠点に数多くの絵画や彫刻をこの世に残しました。

ピカソとは
画像:Pablo Picasso

対象を多角的に描写する技法「キュビズム」を得意としたことでも知られており、その独特な作風は現代美術に大きな影響を与えています。

ピカソは人類史上最も成功した画家ともいわれており、彼が残した作品は現在でも世界中の人々に愛されています。

 

②ピカソの名前は長い

ピカソは名前が非常に長いことでも有名な人物です。キリスト教徒の家に生まれた彼の洗礼名は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」といいました。

ピカソ 名前
画像:Pablo Picasso with his sister Lola

さらにスペインでは父親姓と母親姓をつなげたものが苗字として使われたたため、フルネームでは語尾に「ルイス・ピカソ」が加わりました。

呼び難さ極まるピカソの洗礼名ですが、実はキリスト教の聖人の名前を組み合わせた、とてもありがたい名前でもありました。

 

③ピカソは結局自分の名前を覚えられなかった

ピカソの本名はあまりにも長く呼ぶにも不便であったため、普段はパブロ・ピカソと略されていたようです。また、ピカソ本人も死ぬまで自分の名前を正しく言えなかったといわれています。

ピカソ 若い
画像:RMN-Grand Palais

しかし、いくら長くても自分の名前を覚えられないとは考えにくいため、ピカソはそもそも自分の名前を覚える気が無かったのかも知れません。

余談ですがピカソは苗字もピカソと略していますが、どうして父親姓のルイスを省いて母親性を使ったのかはわかっていません。

 

④父親は子どもだったピカソのデッサンを見て画家を辞めた

ピカソと父親のドン・ホセには有名な逸話が残されています。ドン・ホセは美術館の学芸員や美術科の教師をしながら画家として活動していました。

しかし、あるとき突然絵を辞めて絵画道具一式を息子のピカソに譲ってしまったのです。

ピカソ 逸話
画像:pixabay

その原因は8歳のピカソが描いたデッサンだといわれています。父のドン・ホセはピカソが描いたデッサンのあまりの見事さに真の才能を知り、絵の道をあきらめたというのです。

同じような逸話はレオナルド・ダ・ヴィンチとその師匠にも存在しています。人類史上最も多才といわれたレオナルド・ダ・ヴィンチについては関連記事にまとめています。

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⑤ピカソは高校を中退している

ピカソは16歳のときに国主催の展覧会で賞を獲得しています。また、地方展でも金賞を受賞し、マドリードにある美術アカデミーに通うようになりました。

ピカソ 中退
画像:pixabay

しかし、学校の授業から学ぶことは何もないと感じたピカソは、アカデミーを自主退学してしまいます。その後は美術館に通って名画を模写するなど独学で絵の勉強を続けたのでした。

16歳のピカソは自分の信念を突き進む自信と意思の強さを持っており、この時期に得た経験がその後の彼の作品の基盤となったのです。

 

⑥ピカソはモナリザを盗んだ容疑で逮捕された

ピカソが30歳のときルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」が盗まれるという事件が発生しました。そして、ピカソはその容疑者として逮捕されてしまったのです。

モナリザ盗難事件の容疑者はピカソだけではなく多数の人間が取り調べられました。しかし、捜査の中でピカソの名前が挙がったのは彼に前歴があったからでした。

モナリザ
画像:Leonardo da Vinci

過去にピカソの知人がルーヴル美術館から彫刻を盗み出し、それをピカソに分け与えたことがあったのです。ピカソはそれが盗品だと知るとルーヴル美術館に返しに行きましたが、窃盗犯に関係した人物として警察にマークされたのです。

モナリザ盗難事件でも結局ピカソは証拠不十分で直ぐに釈放されました。後日、イタリアの古物商にモナリザを売り込もうとしたルーヴル美術館の塗装職人が犯人として逮捕されています。

 

⑦ピカソは生まれたとき死産扱いされた

母親がピカソを出産したとき大変な難産だったといわれています。出産直後のピカソは衰弱しきっていて反応が無かったため、担当した助産師は死産と判断して彼をテーブルに放置しました。

ピカソ 死産
画像:pixabay

しかし、その場に立ち会った医師でもある叔父のドン・サルバドールが、赤ん坊のピカソに煙草の煙を吹きかけると苦しそうな反応を示したのです。こうしてピカソは死産ではないことが判明しました。

当時は出産の立ち合いの現場でも煙草を平気で吸っていたようですが、生死を確かめるためとはいえ赤ん坊に煙を吹きかけるとは現代ではとても考えられませんね。

 

⑧暗い絵ばかり描いた「青の時代」

ピカソは画風が何度も変化した画家としても知られています。10代後半からは明るい色を使わない暗く物静かな絵ばかりを描いており、この時期は「青の時代」と呼ばれています。

青の時代
画像:pixabay

そのきっかけは仲の良かったカサヘマスの自殺でした。ピカソは親友の死にショックを受け、死や孤独を見つめながら芸術活動に勤しんだのです。

青の時代のピカソは障害者や乞食、娼婦などを多く描いており、社会に潜む闇の多くを表現しました。ちなみに青の時代の青は青春という意味で使われています。

 

⑨明るい絵ばかり描いた「ばら色の時代」

20代も半ばに差し掛かるとピカソは打って変わってエネルギーに溢れた明るい絵を多く書くようになります。この時代は「ばら色の時代」といわれています。

ばら色の時代
画像:pixabay

この時代のピカソは家族や元気な子供たち、サーカスの芸人などを被写体にしており、人生の幸せや喜びなどを表現しています。

その原因は人生で初めて恋人が出来たからだといわれており、絵からも陰鬱さは消え去り夢と希望が感じ取れます。ピカソは自身の感情を素直に絵に反映させていることがわかります。

 

⑩アフリカ彫刻から生まれた「キュビスム」

ピカソと言えば被写体を忠実に描くのではなく、いくつもの角度から見た形を描写する「キュビスム」が有名です。ピカソはアフリカ彫刻からキュビスムの着想を得ており、20代後半以降はこの技法で数多くの絵を残しています。

ピカソが初めてキュビスムで絵を描いたのは「アビニヨンの娘たち」という5人の売春婦の絵でした。彼は本当に親しい数人の友人にだけこの絵を見せましたが、彼らの反応は決して良くありませんでした。

それどころかアビニヨンの娘たちを酷評し、怒り出す者までいたのです。あまりの酷評ぶりに友人のひとりアンドレ・ドランはピカソの自殺を心配したほどでした。

ピカソ キュビスム
画像:pixabay

ところが友人の中でも特にアビニヨンの娘たちを酷評したジョルジュ・ブラックは、すぐ後にピカソの絵の革新性に気付き同じような絵を制作するようになります。そして、最終的にはピカソに並んでキュビスムを代表する画家のひとりとなっています。

その後、ピカソとブラックのキュビスム作品は世に広く知られるようになっていきます。最初こそ奇妙で醜い絵だと酷評されていましたが、やがて天才が描く革新的な芸術だと認識されるようになっていきました。

 

⑪晩年のピカソの絵はあまり評価されなかった

晩年のピカソの絵は彼のこれまでの絵の集大成ともいえるものでした。ピカソはより自由によりカラフルに自分の感情を絵に表現したのです。

しかし、これらの絵は世間からはあまり評価されませんでした。晩年のピカソは裸の女性をモチーフに「裸婦たち」や「しゃがむ女」など陰部を隠さない絵を描いています。

ピカソ 晩年
画像:pixabay

これらは多くの批評家から時代遅れの芸術家の「妄想」や「落書き」であるとこき下ろされました。そして、ピカソを長く支持していたダグラス・クーパーさえも彼を「頭がおかしい老人」と評したのです。

しかし、ピカソは酷評を一切気にしておらず、「歳をとってからやっと子どもらしい絵を描くことができるようになった。」と満足していたといいます。

これらの絵は彼の死後「新表現主義」の芸術に影響を与えた革新的な作品として、現在では一定の評価を得ています。

 

⑫ピカソは作品数の多さでギネスに認定されている

ピカソは人類史上で最も「多作」な芸術家と呼ばれています。彼はその生涯で13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻を制作しています。

ピカソ ギネス
画像:pixabay

その作品数は合計すると147,800点に及び、ギネス世界記録にも登録されています。彼が絵を描き始めたのは8歳ごろといわれていますが、ざっと計算しただけでも92歳で亡くなるまでに毎年1760点近くの作品を作っていた計算になります。

これは一日に4~5作品という驚異的なペースであり、当分のあいだは破られることがないと予想されています。

 

⑬ピカソは生前に最も稼いだ画家だった

芸術家は生前は中々評価されないというイメージがありますが、ピカソは生前に最も成功した画家としても知られています。

ピカソは20代半ばまでの「青の時代」と「ばら色の時代」で既に成功しており、芸術家としてかなりの名声と富を手に入れていました。

また、死後に鑑定されたピカソの遺産は日本円で約7,500億円にも上ったといわれており、生前に彼ほど稼いだ芸術家はいないといわれています。

ピカソ 最も稼いだ
画像:pixabay

ピカソは買い物の際に小切手を多用していたといわれていますが、実際には銀行からお金が引き落とされることは少なかったそうです。

これは小切手に書かれたピカソのサインがお金よりも価値があると考えて飾っておく店主が多かったためで、ピカソはそこまで計算して小切手払いにしていたといわれています。

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⑭ピカソは晩年にも若い愛人が沢山いた

富も名声も手に入れていたピカソは歳をとっても若い愛人たちが沢山いたといわれています。

ピカソは48歳のときに17歳のマリー・テレーズ・ワルテルに恋をし、妻のオルガと離婚しようと考えます。しかし、離婚による財産分与を嫌って結局は断念しています。ピカソとマリーの関係はオルガが死ぬまで続き、子どももひとり儲けています。

ピカソ 愛人
画像:pixabay

また、62歳のときには21歳の美術学生フランソワーズ・ジローと恋をしてふたりの子どもを作っています。ピカソは孫ともいえる歳の女性たちと数多くの恋をしており、プレイボーイだったことがわかっています。

 

⑮ピカソは嗜虐心も強かった

恋多き男ピカソですが、失恋した際に相手に復讐することもありました。先述したフランソワーズは最終的にはピカソを振って他の男性と結婚してしまいます。

ピカソはこれにショックを受け落胆しましたが、これが彼の嗜虐心に火を付けました。

ピカソ 怒り
画像:pixabay

ピカソと別れたものの日々の生活に苦しんでいたフランソワーズは、ふたりの子どもたちをピカソに認知させようと必死でした。そんな彼女に対してピカソは、「今の夫と別れるならば結婚してあげよう。」と話を持ち掛けたのです。

そこで夫と離婚したフランソワーズがピカソの元を訪れると、彼はすでに他の女性と結婚していたのでした。ピカソを振ったのは生涯でフランソワーズだけだといわれており、新しい結婚も彼女に復讐するためだったと考えられています。

 

⑯ピカソは平和主義者だった

自分を捨てた恋人には手厳しいピカソでしたが、戦争などの暴力に対しては否定的な平和主義者だったといわれています。

ピカソは戦争には積極的に参加せず、過激な独立運動のメンバーと仲が良かったときも自分は運動に参加しませんでした。

ピカソ 平和主義者
画像:pixabay

ドイツ軍に空爆された都市をモチーフにした作品「ゲルニカ」がパリ万国博覧会に出展された際には、ドイツ軍将校から「この作品を作ったのはあなたですか?」と聞かれるたびに「いえ、あなたたちです。」と答えたという逸話も残っています。

しかし、そんなときもピカソは彼らを無下には扱わず、ゲルニカの絵ハガキをお土産にプレゼントしていたといわれています。

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⑰ピカソの絵は高額で落札されている

ピカソの死後もその絵の価値は下がらず、近年でも高額で落札されています。2004年にはニューヨークのオークションでピカソの「パイプを持つ少年」が1億416万8000ドル(約118億円)で落札されました。

また、2006年には同オークションで「ドラ・マールの肖像」に、9521万6000ドル(約108億円)の値が付けられました。

ピカソ 落札
画像:pixabay

2010年にはピカソの「ヌード・観葉植物と胸像」がニューヨークで1億650万ドル(約101億円)で落札され、当時の最高落札額を更新しています。

一時代を築いた天才ピカソの作品は、彼の死後も多くの芸術愛好家に愛されているのです。

 

⑱ピカソは好きだという理由で娘の名前を「鳩」にした

あまり知られていませんが、ピカソは鳩(ハト)が大好きでした。彼は幼少期から鳩を愛しており、絵のモチーフに何度も使用しています。

芸術に関してストイックだったピカソはアトリエには妻でさえも立ち入りを禁止していました。しかし、愛鳥の鳩だけは立ち入りを許していたといわれています。

ピカソ 鳩
画像:pixabay

また、鳩への愛情が極まって恋人のフランソワーズとのあいだに生まれた娘に「パロマ(鳩)」という名前まで付けています。しかし、先述したとおりピカソはフランソワーズとのあいだの子を認知していません。

父親として認知もしないのに鳩という名前だけ付けられた娘のパロマが不憫でなりませんね。ちなみにパロマ・ピカソ氏はティファニーの優秀なデザイナーとして現在も活躍中です。

 

⑲ピカソの名言・格言

天才芸術家ピカソは数多くの名言をこの世に残しています。ここではピカソの名言・格言をご紹介します。

ピカソの名言・格言①

私は対象を見えるようにではなく、

私が思うように描くのだ。

 

ピカソの名言・格言②

コンピューターなんて役に立たない。

だって、答を出すだけなんだから。

 

ピカソの名言・格言③

できると思えばできる、

できないと思えばできない。

これは、ゆるぎない

絶対的な法則である。

 

ピカソの名言・格言④

誰もが芸術を理解しようとする。

ならば、なぜ鳥の声を

理解しようとはしないのか。

人が、夜や花を、

そして自分を取り巻く全てのものを、

理解しようとしないで

愛せるのはなぜだろうか。

なぜか芸術に限って、

人は理解したがるのだ。

 

ピカソの名言・格言⑤

私は捜し求めない。

見出すのだ。

 

ピカソの名言・格言⑥

明日に延ばしてもいいのは、

やり残して死んでも

かまわないことだけだ。

 

出典参考:wikipedia
画像:Pablo Picasso

 

いかがでしたか?人類史上最も多才な天才画家ピカソについてご紹介しました。自分の感性だけを信じ、それを表現したピカソ。現代の私たちに必要なのは彼のような感性なのかも知れません。

世界にはまだまだロマンが溢れています。