軍人から皇帝に即位したフランスの英雄「ナポレオン」。しかし、ナポレオンとはそもそもどのような人物だったのでしょう?
今回はナポレオンの逸話や身長の秘密、死因の謎などについてご紹介します。
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目次
ナポレオン
①ナポレオンとは
ナポレオン・ボナパルトは1700年代後半から1800年代前半に活躍したフランスの軍人・皇帝です。まだまだ混乱状態にあった革命後のフランスを治め、独裁者としてフランスを強力な軍事国家に成長させました。
画像:Jean Auguste Dominique Ingres
後のナポレオン戦争で敗北して失脚するまで指導者としてフランス帝国を指揮し、ヨーロッパ大陸のほとんどの地域を支配下に置きました。ナポレオンは現在でもフランスの英雄として扱われており、国外においても非常に人気の高い偉人として知られています。
②フランス革命とは
フランス革命は18世紀のフランスで起きた市民革命です。ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑でも有名なこのブルボン王朝の転覆により、フランスは絶対王政から共和制に生まれ変わります。
画像:Jean Duplessis-Bertaux
市民運動から始まったフランス革命でしたが、最終的には当時軍人だったナポレオンのクーデターにより決定的なものになりました。これによりフランスはナポレオンを先頭にした新体制を築くことになります。
このような理由からナポレオンはフランスにおいて英雄として扱われているのです。
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③ナポレオンは友達が少なく読書が趣味だった
幼少期のナポレオンは読書が好きな大人しい男の子でした。中でもローマ帝国の作家プルタルコスの『英雄伝』がお気に入りだったといわれています。
画像:Jean Auguste Dominique Ingres
体が小さく無口だったナポレオンはあまり友達が多くありませんでした。それどころか言葉の訛りやナポレオンの発音に近い『ラパイヨネ(藁の鼻)』と呼ばれてイジメられることさえありました。
④ナポレオンは短気で喧嘩っ早い性格だった
イジメられっ子のナポレオンでしたが、何の抵抗もせずただイジメられていただけではなかったようです。彼は非常に短気で馬鹿にされると直ぐに相手に殴りかかるような子どもでした。
画像:Andrea Appiani
ナポレオンは癇癪(かんしゃく)持ちであったため発達障害だったのではないかという説も存在します。アインシュタインなどの天才と呼ばれた偉人の多くは発達障害だったことがわかっており、彼らの偉業と何かしらの因果関係が存在するといわれています。
20世紀最大の物理学者アインシュタインについては関連記事にまとめています。
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⑤ナポレオンの身長は決して低くなかった
身長が低かったことでも有名なナポレオンですが、実は彼は特別低身長だったわけではありません。ナポレオンの身長は167センチメートルほどでしたが、これは当時のフランス人男性の平均身長と変わりませんでした。
それではなぜナポレオンは身長が低かったといわれるようになったのでしょうか?
画像:Jacques-Louis David
実はナポレオンの側近たちの身長が軒並み高かったのです。当時のフランス軍幹部は180センチメートルを超える高身長者ばかりであり、最も身長が高かったモルティエ元帥などは196センチメートルもある大男でした。
それもそのはず、ナポレオン親衛隊の入隊条件は身長が178センチメートル以上と決められていたのです。これではナポレオンが小さく見えてしまっても仕方ありませんね。
⑥ナポレオンは秀才で数学が得意だった
ナポレオンは学生時代に成績が優秀だったことでも知られています。彼はパリの陸軍士官学校で大砲科に通っていましたが、通常4年かかる在学期間をわずか11ヵ月で終了しています。
画像:pixabay
これは陸軍士官学校始まって以来の最短記録であり、ナポレオンがいかに優秀な人物であったかがわかる逸話です。
また、学問の中でも特に数学が得意で、学校でトップクラスの成績を収めていたといわれています。ナポレオンは生涯数学の勉強を続けており、皇帝になったあとも数学者を近くに置いて勉強をしていました。
⑦ナポレオンは大砲戦術に秀でていた
士官学校で大砲学を学んだナポレオンの大砲戦術は、斬新かつ大胆であり多くの敵軍の度肝を抜きました。当時まだ中位の軍人だったナポレオンは自軍の惨状を見かねて、敵軍近くの港の高地を占領し、そこから敵艦めがけて大砲を打ち下ろす戦術を提言します。
司令官であったデュゴミエ将軍がこの戦術を実行したところ見事に成功し、ナポレオンは『若き英雄』と呼ばれるようになりました。
画像:F. de Myrbach
また、パリで大規模の反乱が起こった際には一般市民に散弾大砲を撃ち込むという驚愕の戦術で事態を迅速に鎮静化させます。その後も司令官になったナポレオンはイタリア軍に対して独自の大砲戦術を展開し連戦連勝を収めることになります。
こうしてフランス国内でのナポレオン人気は不動のものとなりました。そして、ナポレオン率いる大砲隊も後述する『ナポレオン戦争』で大敗するまでは無敵の陸上軍隊として世界中で恐れられるようになるのです。
⑧ナポレオンはクーデターを起こして独裁者になった
1799年、オーストリアにイタリアを奪還されたフランス政府に対して、国民の不満は頂点に達しようとしていました。そしてナポレオンは市民階級からの意向を受け、総裁政府に対して『ブリュメールのクーデター』を起こします。
画像:François Bouchot
これによりナポレオンは政府を総裁制から『統領制』に変更し、自身が統領になることで実質の独裁政権を築いたのです。
統領になったナポレオンはオーストラリアに大勝し、イタリアの一部をフランスの保護国にします。残るイギリスとも『アミアンの和約』を結び、国内外の混乱を治めたのです。
同じく世界的に有名な独裁者ヒトラーについては関連記事にまとめています。
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⑨ナポレオン法典はフランス人の価値観を変えた
ナポレオンは『ナポレオン法典』により国内に一定の法を定め、それまで地域によって差異があった習慣を統一させました。その内容はすべての人民に対する法の平等性を謳っており、宗教や経済活動の自由を保障するものでした。
画像:pixabay
これは現在の法律にも近い近代的な法典であり、当時は非常に画期的なものでした。他にもナポレオンは国民のために公共の教育制度を制定し、交通の整備にも力を入れています。
また、フランス革命後に政府との関係が悪化していたローマ教会に対しても歩み寄り、『政教条約』によって対立の緩和を図っています。
⑩ナポレオンは国民投票によって皇帝に即位した
統領就任から5年後の1804年にナポレオンは皇帝に即位しました。かの有名な「皇帝ナポレオン一世」の誕生です。
この皇帝即位はフランス国民の投票によって行われ、民主主義形式に沿ったものでした。しかし、実質には民主主義における『英雄の独裁政権』であり、諸外国には衝撃を与えました。
画像:Jacques-Louis David,Georges Rouget
フランス革命以前は王が即位する際には教皇が王に対して冠を授けるのが一般的でした。しかし、ナポレオンは当時の教皇ピウス7世を戴冠式に招いておきながら、自身で王冠を頭に載せたのです。
この行動は政治と宗教の決別を意味しており、政府が教会を管理するというナポレオンの意思表示でした。
皇帝になったことで権力は世襲制になり、ナポレオンは兄のジョセフをナポリ王に、弟ルイをオランダ王に、弟ジェロームはヴェストファーレン王に即位させています。
⑪ナポレオンの妻は上司の愛人
ナポレオンは27歳のときに貴族の未亡人ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しています。彼女はクーデターのメンバーで旧政府のリーダー格でもあったポール・バラスの愛人でした。
画像:François Gérard
ポール・バラスはパリの反乱のときにナポレオンを副官に指名した上官であり、ナポレオンが名を挙げるきっかけを作った人物でもありました。つまりナポレオンは上司の愛人と結婚したのです。
バラスはナポレオンが起こしたクーデターに参加するもかつての地位を失い、ナポレオン夫妻を誹謗中傷した罰で後に国外追放されています。
⑫ナポレオンは0歳の息子を王にした
ナポレオンとジョセフィーヌは子どもに恵まれることがありませんでした。そのためジョセフィーヌとは離婚し、39歳のときにオーストラリア皇女マリ・ルイーズと再婚しました。
ナポレオンの再婚相手にははじめアレクサンドル1世の妹でロシア皇女のアンナ・パーヴロヴナ大公女の名前が上がっていました。しかし、ロシア側の猛反対に遭いオーストラリアの宰相メッテルニヒがマリを薦めたのです。
画像:Joseph Franque
こうしてナポレオンとマリは結婚し、翌年にはナポレオン2世が誕生しました。ナポレオンは息子が誕生すると直ぐに彼をローマ王に任命します。
ナポレオン2世は若干0歳にして王に即位することになったのです。
⑬凱旋門はナポレオンが造った
フランス・パリのエトワール凱旋門は観光名所として有名です。この凱旋門はナポレオンが命じて造らせたものでした。
画像:Alvesgaspar
巨大な凱旋門の建設には30年もの月日を要し、完成した時にはナポレオンはすでに亡くなっていました。
ナポレオンの墓がパリに移された際に、彼はこの凱旋門の下を通っています。
⑭ベートーベン作曲「英雄」のモデルはナポレオン
ベートーベンが作曲した交響曲第3番『英雄』のモデルはナポレオンだったといわれています。ベートーベンはナポレオンの支持者であり、彼のために『英雄』を作曲したのです。
しかし、民主主義を謳っていたはずのナポレオンが皇帝に即位したことに失望し、曲名を『ボナパルト』から『英雄』に変更したのではないかといわれています。
画像:Joseph Karl Stieler
他にも曲の内容が英雄の死についても触れていたため、ナポレオンの名前を伏せたとする説もあります。ベートーベンにはナポレオンのスパイだったという説もあり、ふたりが全くの他人ではなかったと考えられています。
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⑮ナポレオン戦争とフランス帝国の崩壊
ナポレオン戦争とはイギリスがアミアンの和約を反故にしてから、フランスが大敗してナポレオンが失脚するまでに起こった戦争の総称です。
ナポレオン率いるフランス軍はイギリス、オーストリア、ロシアなどの大同盟軍を相手に苦戦を強いられることになりました。
画像:François Gérard
スペインとの戦いに苦戦したのをきっかけに、次々と敵対国が同盟を結び結果的にフランスは大敗を喫します。
ナポレオンは交渉による終戦と退位を望みましたが、部下の裏切りにより無条件で失脚させられてしまいます。こうしてナポレオンのフランス帝国は終わりを告げたのです。
⑯晩年は劣悪な環境で過ごした
ナポレオンが退位した後のフランスは再度ブルボン家が政権を持つことになります。しかし、一度は国外追放されながらもナポレオンはパリに戻って復位を成し遂げます。
彼は反ナポレオン勢力との交渉を試みましたが拒否され、最終的に戦争に敗れてイギリスに捕縛されました。復位からわずか95日後の出来事でした。
画像:François-Joseph Sandmann
その後、ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島に監禁されてしまいます。そこで彼を苦しめたのは慣れない高温多湿の気候と看守の提督ハドソン・ローでした。
ハドソンはナポレオンを「ボナパルト将軍」と馬鹿にして呼び、腐った酒などを振る舞ったといわれています。また、ナポレオンが体調を崩した際には主治医を国に帰らせてしまいました。
晩年のナポレオンの生活は屈辱と悲哀に満ちた凄惨なものだったのです。
⑰ナポレオンの死因の謎と暗殺説が存在する
セントヘレナ島での生活はナポレオンの心と体を蝕み、やがて彼は胃がんを患います。そして、孤独の中でその生涯を終えました。
解剖されたナポレオンの遺体から胃がんや胃潰瘍の痕が見つかったため、一般的に彼の死因は胃がんだとされています。しかし、ナポレオンにはヒ素での暗殺説も存在するのです。
ナポレオンの遺体がフランスに還されたとき、彼の体はほとんど腐敗が進んでいない状態でした。ヒ素には腐敗を遅らせる効果があるため、ナポレオンはヒ素によって暗殺されたのではないかと噂されました。
画像:World Imaging
また、高温多湿の劣悪な環境によって発生したカビが部屋の壁に使われていたヒ素とともに空気中に浮遊し、それを長期間にわたって吸い込んだナポレオンが中毒死を起こした可能性も指摘されています。
他にも臨終時にナポレオンを看取った医者が出した薬が混ざり合うことで劇物になっていたことが残されたカルテで明らかになっています。
公的にナポレオンの死因は現在も胃がんだとされていますが、他殺であった可能性は捨てきれないのです。
⑱ナポレオンの子孫は存在する
ナポレオンの直径の子孫はナポレオン2世ただ1人です。このナポレオン2世はナポレオンが失脚後に幽閉され、21歳の若さで結核を患い亡くなっています。
彼は結婚することができなかったため、ナポレオンの子孫はここで途絶えています。
画像:Jean-Christophe Napoléon
しかし、ナポレオンが失脚した後は甥のルイ・ナポレオンがナポレオン3世として皇帝に即位し、子孫を残しています。そういった意味ではナポレオンの血は途絶えておらず、子孫もいるということになります。
ナポレオン7世であるシャルル・ナポレオン・ボナパルトは現在も健在の政治家であり、息子のジャン・クリストフ・ナポレオン(ナポレオン8世)は 1986年生まれの31歳です。
⑲ナポレオンにはフリーメイソン説が存在する
ナポレオンは秘密結社フリーメイソンの一員だったという説が存在します。ナポレオンの弟ルイはフリーメイソンの副グランドマスターを務めており、同じく弟のジェロームやジョゼフも後にグランドマスターに就任しています。
画像:Jean-Baptiste Debret
ナポレオンがフリーメイソンだったという証拠は残っていませんが、これらの事実から彼もフリーメイソンだった可能性が高いといわれているのです。ナポレオンはフリーメイソンの持つ幅広い人脈や情報によって治世を有利に進めていたのかも知れません。
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⑳ナポレオンの名言・格言
英雄として強国を支えたナポレオンは数々の名言を残しています。ここではナポレオンの名言・格言をご紹介します。
ナポレオンの名言・格言①
我輩の辞書に
不可能という文字はない。
ナポレオンの名言・格言②
決して落胆しないこと。
それが将軍としての第一の素質である。
ナポレオンの名言・格言③
じっくり考えろ。
しかし、行動する時が来たなら、
考えるのをやめて、
進め。
ナポレオンの名言・格言④
戦術とは、
一点に全ての力をふるうことである。
ナポレオンの名言・格言⑤
不可能は、
小心者の幻影であり、
権力者の無能の証であり、
卑怯者の避難所である。
ナポレオンの名言・格言⑥
状況?
何が状況だ。
俺が状況を作るのだ。
出典参考:wikipedia
画像:Jacques-Louis David
いかがでしたか?フランスの英雄ナポレオンについてご紹介しました。独裁者でありながら人民に愛されたナポレオン。彼のカリスマ性は今の世にこそ必要なものなのかも知れません。
世界にはまだまだロマンが溢れています。