旧一万円札紙幣で有名な飛鳥時代の皇族「聖徳太子」。この聖徳太子とはそもそもどのような人物なのでしょうか?
今回は聖徳太子の逸話や伝説、死因の謎や予言能力についてご紹介します。
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目次
聖徳太子
①聖徳太子とは
聖徳太子は西暦500年代後半から600年代前半に活躍した飛鳥時代の政治家です。天皇を父に持つ皇族の生まれであり、優れた能力によって天皇中心の集権体制を確立させた人物であるといわれています。
聖徳太子は当時進歩的だった中国の文化を積極的に取り入れ、日本の近代化に貢献しました。また、仏教を日本に積極的に取り入れたのもこの聖徳太子だといわれています。
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聖徳太子の肖像は日本紙幣に用いられていたことから1500年近く経過した現在でも広く知られています。また、様々な伝説や逸話が残されていることでも有名な偉人です。
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②聖徳太子は遣隋使を派遣した
遣隋使(けんずいし)とは、当時大国だった隋(ずい)から文化や技術を学ぶために日本が派遣した使徒です。聖徳太子は遣隋使を積極的に派遣することで当時の先進国であった中国文化を日本に取り入れようと試みました。
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これによって後述する冠位十二階や十七条憲法を制定するに至ったといわれています。しかし、長らく遣隋使は聖徳太子が始めたと解釈をされていましたが、近年になってこれより以前から隋に使途が遣わされていたことがわかっています。
③聖徳太子が冠位十二階を定めた
冠位十二階(かんいじゅうにかい)とは、西暦604年から43年間にわたって制定されていた朝廷の階級制度です。当時の朝廷ではこの冠位十二階に沿って臣下を12の等級に区別していました。
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この冠位十二階は日本で初めての階級制度であると考えられており、これにより国内の人材登用に革命が起きたといわれています。冠位十二階も聖徳太子の制定した制度であるとされていましたが、現在では聖徳太子の叔父であり大臣だった蘇我馬子(そがのうまこ)と共同で生み出された制度だと考えられています。
④聖徳太子が十七条憲法を定めた
十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)とは、聖徳太子が定めたとされている17項目の憲法です。憲法という名が付けられていますが、実際には大臣や貴族に対する道徳規範であり、行政のための組織法でした。
また、多分に儒教や仏教などの宗教的観念が含まれていました。
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十七条憲法は制定から100年以上後の「日本書紀」に記されているものが最古の記録であり、原本や写本は存在していません。そのため十七条憲法は実在しておらず、後世の人々が考えた創作なのではないかという説さえ存在しています。
飛鳥時代は今から1500年以上も過去であるため、証拠となる遺物が中々発見されません。そのためどこからが伝説でどこからが実際に起きたことなのかは非常に曖昧になってしまうのです。
⑤聖徳太子は馬小屋で生まれた
聖徳太子は馬小屋で生まれたと語り継がれています。また、母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は「西の観音菩薩」が口から胎内に入ったことにより聖徳太子を妊娠したという伝説まで存在します。
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馬小屋で生まれたことや母親が処女妊娠している点はキリスト教に伝わるイエス・キリストの誕生に酷似しています。そのため聖徳太子の誕生伝説は当時中国に伝わっていたキリスト教の伝承を取り入れたものではないかという研究者も存在します。
また、後述するように聖徳太子の父親とされている人物も語り継がれています。
⑥聖徳太子は本名ではない
聖徳太子という名前は後世の人々が付けたあだ名であり、彼の本名ではありません。聖徳太子の本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」といいました。
これは聖徳太子が馬小屋で生まれたから付けられた名前だといわれていますが、他にも叔父である蘇我馬子の家で出産したことにあやかったのではないかという説もあります。
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聖徳太子には様々なあだ名が付けられており、複数人の会話を聞き分けた伝説から「豊聡耳(とよとみみ)」と呼ばれたり、数々の制度を打ち立てたことから日本書紀では「法主王(のりのぬしのおほきみ)」とも称されています。
聖徳太子という呼び方は平安時代に生まれたものであり、語呂の良さから1000年近く定着し続けているのです。
⑦聖徳太子の父母は兄妹
先述したとおり聖徳太子は母である穴穂部間人皇女の処女妊娠によって生まれたという伝説があります。しかし、実際には日本の第31代天皇である「用明天皇(ようめいてんのう)」の子どもであったことがわかっています。
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当然のことですが聖徳太子は観音菩薩の子どもではなかったのです。さらに聖徳太子の父母である用明天皇と穴穂部間人皇女は兄妹だったこともわかっています。
ちなみに用明天皇には7人の子どもがいましたが、第二皇子だった聖徳太子を含めて誰一人天皇にはなっていません。
⑧聖徳太子は頭に仏像をのせて戦った
生まれた直後に言葉を発し、幼少期には学問を身に付けていたといわれる聖徳太子は大変に優秀な人物だったと語り継がれています。
画像:pixabay
また、少年期には自ら軍人として戦場で戦い、味方を鼓舞して回ったといわれています。さらにその際には頭に仏像(四天王に見立てた木の棒とも)を乗せて戦っていたという伝説まで存在してます。
聖徳太子が仏教を深く信仰していたことがわかる逸話ですね。
⑨聖徳太子は最も多くお札になった偉人
聖徳太子は日本で最もお札に使われた偉人としても知られています。1930年に初めて百円札紙幣として使われて以降、千円札、五千円札、一万円札など計7回も紙幣に肖像が使われています。
画像:Japanese 10000 Yen bill
特に一万円札紙幣の肖像は日本国民に広く浸透しました。現在、三万円のことを「福沢諭吉が三人」と表現するように、当時は聖徳太子も高額紙幣を表す言葉として用いられていました。
この一万円札の普及により聖徳太子の知名度が高くなったことはいうまでもありません。
⑩聖徳太子は天皇になれなかった
聖徳太子は第31代天皇・用明天皇の息子でしたが天皇にはなっていません。当時の王位は父親から息子へ継承されるのが一般的でしたが、用明天皇が亡くなった際には弟の「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」が第32代天皇に即位しています。
しかし、この崇峻天皇は天皇に即位して間もなく亡くなってしまいます。そのため次の天皇候補のひとりとして当然聖徳太子の名前も挙がりました。
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ところが当時の王朝はこれまで考えられなかった決断を下すことになります。用明天皇や崇峻天皇の妹である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を史上初の女性天皇として天皇に即位させたのです。
それが有名な女性天皇「推古天皇(すいこてんのう)」でした。女性である推古天皇の即位は、彼女の息子である竹田皇子(たけだのみこ)に王位継承権を与えるための朝廷の政略だったのではないかといわれています。
こうして聖徳太子は結果的に天皇になることはできませんでした。しかし、彼は学問に傾倒していたため、天皇になることを自ら避けていたのではないかという見解も存在します。
⑪聖徳太子の配偶者と子孫
聖徳太子は4人の女性と結婚していたことがわかっています。最初の妻は「菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)」です。菟道貝蛸皇女は推古天皇の長女でしたが、聖徳太子とのあいだに子どもを儲けていません。
そのため、菟道貝蛸皇女は不妊症もしくは結婚後直ぐに亡くなってしまったのではないかといわれています。
2人目の妻は「刀自古郎女(とじこのいらつめ」という女性で、聖徳太子の叔父である蘇我馬子の娘でした。つまり聖徳太子とは従兄妹同士ということになります。
刀自古郎女は聖徳太子とのあいだに「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」を含む三男一女を産んでいます。しかし、不思議なことに山背大兄王の父親が聖徳太子だったという記録は残されていません。
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3人目の妻は「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ」という豪族の娘でした。この膳部菩岐々美郎女は4人の妻の中で最も身分が低い天皇家の食事係でした。しかし、芹(せり)を摘む膳部菩岐々美郎女に一目惚れした聖徳太子が熱心に求愛して結婚したという伝説が残されています。
彼女は低い身分でありながら聖徳太子の子を最も多く出産し、生涯支え続けたといわれています。また、聖徳太子に最も愛された妻だと考えられており、夫の死の翌日に後を追って亡くなったと伝えられています。
最後の妻は「橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)」という推古天皇の孫娘に当たる女性でした。聖徳太子と橘大郎女は20以上歳が離れていたと考えられていますが、子どもをふたり儲けています。
橘大郎女は聖徳太子の死後、祖母の推古天皇に願い出て夫がいる天国の様子を刺繍(ししゅう)織物として作らせました。これは日本最古の刺繍であり、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」と呼ばれて国宝にもなっています。
⑫聖徳太子は耳が良く同時に10人の話を聞き分けた
聖徳太子の伝説の中で最も有名なのが「同時に10人の言葉を聞き分けた」というものです。それは聖徳太子が人々の願いを聞く機会を設けたときのことでした。
人々は願ってもない機会に興奮し、その場にいた10人が同時に聖徳太子へ願いを口にしたのです。通常であれば10人もの人々の言葉を同時に理解することなどできるはずもありません。
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しかし、聖徳太子は一度聞いただけで10人それぞれに対して適切な回答をしたと言い伝えられています。この伝承から聖徳太子は「豊聡耳(とよとみみ)」とも呼ばれるようになり、彼の聡明さを表す逸話として現在でも広く知られています。
他にも聖徳太子には36人もの子どもの会話を聞き分けたという伝説も残っていますが、これらは彼の偉大さを表すための伝説であり、実際にはこのようなことは無かったのではないかともいわれています。
⑬聖徳太子は空を飛んだという伝説がある
聖徳太子には何と空を飛んだというとんでもない伝説も存在しています。あるとき聖徳太子は全国各地から良馬を納めさせ、その中から一匹の馬を選びました。
数百匹にも及ぶ馬の中から選ばれた白い脚を持つこの馬は美しく、聖徳太子はこれを神馬だと見抜いたといわれています。
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聖徳太子はこの馬に跨ると天高く飛び上がり、大空を駆け回ったといいます。そして、富士山や信濃国(しなののくに)を巡り、たった3日で都まで帰還したと伝承されています。
さすがに実在の人物が馬に乗って空を飛んだというのは無理があるため、聖徳太子の伝説の多くは彼の偉大さを後世に伝えるための作り話だと考えられています。
⑭聖徳太子は仙人を助けたという伝説もある
聖徳太子には仙人を助けたという伝説まで存在しています。あるとき聖徳太子は道端で飢えて倒れている老人を発見しました。
老人は名前を聞いても答えなかったため、聖徳太子は食べ物と飲み物を恵んでやり自身の着物を脱いで与えたといいます。
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老人が気になった聖徳太子は次の日も従者に様子を見に行かせましたが、老人はすでに死んでいたといいます。聖徳太子は老人の死を悼み墓を用意して埋葬しました。
しかし、その後も老人のことが頭から離れなかった聖徳太子は今度は従者に墓の様子を見に行かせます。すると不思議なことに墓は空になっており、聖徳太子が老人に与えた服だけが綺麗にたたんで置かれていたのでした。
聖徳太子は老人が仙人だったと考え、返された服をその後も丁寧に着て過ごしたといわれています。
⑮聖徳太子は予言をしていた
日本書紀には「聖徳太子には未来を予知する力があった」と記されています。また、その予言の内容とみられる部分は削除されており、後世の権力者が都合の良い部分のみを残して編集したのではないかといわれています。
聖徳太子は未来の予言を示した「未来記」という書物を書いたといわれていますが、これ自体は発見されていません。しかし、この未来記に影響を受けて書かれたといわれる「未然本記」は古文書の記述の中に存在が記されています。
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また、「太平記」の中では鎌倉時代の武将である楠木正成が四天王寺で未来記を呼んだという記述が存在しています。それによれば楠木正成が率いる軍が鎌倉幕府に勝利し、後醍醐天皇が復権する未来が記されていたといいます。
他にも聖徳太子は1000年続く「平安京」の成立を予言していたといわれており、黒い竜(黒船)の到来によってやがて都が東(東京)に移ることも言い当てていたと伝承されています。
聖徳太子は2030年に人類が滅亡して世界が終わるという予言も残しているといいます。2030年代といえばノストラダムスも2038年に恐怖の大王が世界を滅ぼすと予言しています。
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⑯聖徳太子の死因は謎に包まれている
622年には都で天然痘が大流行し、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女も病死しています。当時は感染症に対する知識も正しい対処法もなかったため、一度流行してしまうと大勢の人々が亡くなっていました。
そのため聖徳太子の死因も天然痘による病死が有力だといわれています。しかし、死の直前に母親を亡くしていることや、「生きていても仕方がない。」と言ったという伝承も残っており、本当の死因は自殺だったのではないかという説も存在しています。
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また、聖徳太子の死の翌日に妻の膳部菩岐々美郎女が亡くなっていることは美談として語られることが多いですが、当時はこのように続けて人が死ぬと暗殺を疑うのが一般的でした。
聖徳太子には死後に素晴らしい伝説が多く残されていますが、当時は不幸な死に方をした人が怨霊にならないように美談を残すという風習も存在していました。
聖徳太子は1500年近く昔の人物であるため、その死にも多くの謎が存在しているのです。
⑰聖徳太子は実在しなかった可能性がある
聖徳太子には実は存在していなかったとする「創作人物説」が存在しています。聖徳太子の功績だといわれている遣隋使の派遣は、もっと以前から行われていたことがわかっています。
また、冠位十二階は蘇我馬子も制定に関わったといわれており、十七条憲法も後世の価値観が多分に含まれているため本当に聖徳太子が制定したのか怪しいと考えられるようになりました。
画像:Crown Prince Shotoku
さらに一万円紙幣などに使われている聖徳太子の有名な肖像画も、近年では別の人物を描いたものなのではないかといわれています。絵の中で聖徳太子が着ている服や装飾品が当時は存在していなかったことがわかったからです。
また、女性天皇の推古天皇も創作だったのではないかという説が存在しています。推古天皇の時代に隋の使いが日本の天皇に謁見した記録が残されていますが、それによると当時の天皇は男性だったと記録されているからです。
推古天皇の存在は天皇の血筋でない者を天皇に即位させるために創作されたのではないかともいわれています。聖徳太子の存在も何らかの理由で作り出されたものなのかも知れません。
出典参考:wikipedia
画像:Crown Prince Shotoku
いかがでしたか?飛鳥時代の皇族、聖徳太子についてご紹介しました。聖徳太子の存在には諸説あるところですが、太古の人物や伝説が今も語り継がれていることにロマンを感じますね。
世界にはまだまだ不思議や謎が溢れています。