ジャンヌ・ダルクは生きていた?百年戦争の聖少女に残された逸話と謎

ジャンヌ・ダルク


フランスの百年戦争において聖少女と呼ばれた聖人「ジャンヌ・ダルク」。このジャンヌ・ダルクとは一体どのような人物だったのでしょうか?

今回は百年戦争でのジャンヌダルクの逸話と、その生涯に残された謎についてご紹介します。

 
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ジャンヌ・ダルク

①ジャンヌ・ダルクとは

ジャンヌ・ダルクは15世紀のフランスで活躍した女性軍人です。当時のフランスはイギリスとの「百年戦争」で苦境に立たされており、当時のフランス軍戦略の要所である「オルレアン」も包囲されている状況でした。

しかし、ジャンヌ・ダルクがオルレアン解放に貢献し、王太子をフランス王に即位させたことで戦局が大きく改善されたのです。

ジャンヌ・ダルクとは
画像:Archives nationales

最終的には敵軍によって捕らえられ、「異端者」として若干19歳の若さで処刑されてしまいます。

ジャンヌは神の啓示を受けた「聖少女」として当時のフランス軍に勇気と希望を与えたため、現在でもフランスの英雄として世界中でその名を知られているのです。

 

②ジャンヌ・ダルクは農家の生まれ

若くして軍人になりフランス軍を支えた英雄ジャンヌ・ダルクは、農夫の家に生まれました。ジャンヌは5人兄妹の4番目で、3人の兄を見て育ちます。

父のジャック・ダルクは自警団団長を務めており、農業と税金の徴収係を生業としていました。

ジャンヌ・ダルクは農家の生まれ
画像:Thiemo Gamma, Schweiz

ジャンヌの生まれた村ドンレミはフランス王家に忠実でしたが、周辺を敵対勢力に支配されていたため幾度となく襲撃を受けていたといいます。

活発な3人の兄と自警団団長の父、そして幼少期から襲撃を受けていた環境が、男勝りで正義感の強いジャンヌ・ダルクという少女を育てたのかも知れません。

 

③ジャンヌ・ダルクが軍人になったのは神のお告げがあったから

ジャンヌが軍人になろうと思ったきっかけは、彼女が神からのお告げを聞いたからだと伝えられています。伝承されるジャンヌの証言によれば、12歳のあるとき彼女の目の前に聖人とされる「聖マルグリット」と「聖カトリーヌ」、大天使「ミカエル」が現れました。

そして、大天使ミカエルはジャンヌに対して「フランス軍人として戦い、シャルル7世を王に即位させよ」という神からのお告げを伝えたのです。ジャンヌはこれに従いフランス軍に入隊し、後にシャルル7世をフランス王に即位させます。

ジャンヌ・ダルクが軍人になった理由は神のお告げ
画像:Eugène Romain Thirion

ジャンヌの見た神のお告げについては現在でも様々な物議を読んでいます。窮地に立たされたフランス軍を鼓舞するための虚言であったとする説も存在しています。

しかし、ジャンヌが神に対して強い忠誠心を持っていたことは疑いようがないため、彼女自身はお告げを信じていた可能性が高いといわれています。そうだった場合、ある種の精神疾患によってこの幻視を説明することができますが、ジャンヌに他の症状が見られないことから否定的な説であるとされています。

 

④ジャンヌ・ダルクは予言者でもあった

神のお告げに従いジャンヌは当時の守備隊隊長だったフランス軍人ロベール・ド・ボードリクール伯に、シノン城への入場許可を依頼します。しかし、ボードリクール伯は幼い少女の突然の申し出にまともに取り合うことはしませんでした。

ジャンヌ・ダルクは予言者でもあった
画像:Battle_of_Herrings

しかし、ジャンヌはあきらめずに再度ボードリクール伯に許可を求めます。そして今度はオルレアンで起こった「ニシンの戦い」においてフランス軍が敗北するという予言を伝えたのです。

負けるはずのなかったニシンの戦いの敗北に驚いたボードリクール伯は、ジャンヌのシノン城入場を許可します。そしてシノン城でシャルル7世に面会したジャンヌは神からのお告げを彼に伝え、軍への入隊を許可されたのでした。

 

⑤ジャンヌ・ダルクは軍で浮いていた

無事フランス軍人となったジャンヌでしたが、入隊当時は周りの兵士たちから受け入れられず、浮いた存在であったと伝えられています。まだ10代の幼い少女が殺伐とした当時のフランス軍に入隊してきたのですから無理もありません。

屈強な男たちですら命を落とす戦争だったため、ジャンヌも直ぐに戦死するものとして相手にされなかったのかも知れません。

ジャンヌ・ダルクは軍で浮いていた
画像:Jules Eugène Lenepveu

しかし、ジャンヌはわずか9日で兵士たちと打ち解け、さらには士気を高めることに成功したといわれています。特異稀なカリスマ性を発揮したジャンヌはその名をどんどん広め、その後いくつかの戦いにおいてフランス軍を勝利に導くことになります。

 

⑥ジャンヌ・ダルクは男装家だった

歴史の中で語られるジャンヌ・ダルクは男の恰好をしていたことで知られています。ジャンヌは戦場では男物の鎧を身に着け、戦でないときも男装していたといわれています。

また、髪の毛も短く切り揃えられ、およそ年頃の女性の恰好ではありませんでした。

ジャンヌ・ダルクは男装家だった
画像:Joan of Arc on horseback

ジャンヌの男装については一般的にFTM(体は女性だが心は男性)を連想されることが多いようですが、これは事実とは異なっています。

ジャンヌは戦場において男性から性の対象に見られることを防ぐために男装していたと証言しています。初めこそ少女が軍にいることに面食らった兵士たちでしたが、やがて豪快で男装をしているジャンヌを男性と同じように扱うようになったといわれています。

 

⑦ジャンヌ・ダルクは19歳にして優れた戦術家だった

ジャンヌの指揮能力には諸説あり、兵士の指揮を高めるための単なる旗持ちだったという説もあります。事実、ジャンヌは剣よりも旗を持つことでフランス軍を鼓舞していました。

しかし、現在では若くして非常に優秀な戦略家であり、戦術家でもあったのではないかといわれています。

ジャンヌ・ダルクは19歳にして優れた戦術家だった
画像:Jan Matejko

彼女は数々の戦略会議に出席し、周囲が驚くような大胆な戦法を提案していたという記録が残されています。また、シャルル7世や上官からの指示を無視して独自の判断のもと行動し、それによって良い成果をあげたという逸話も存在します。

ジャンヌはよく命令違反をすることでも有名でしたが、それ以上に状況判断能力が高いと評価されていたのです。

 

⑧ジャンヌ・ダルクは交渉が上手だった

ジャンヌは戦術だけでなく交渉術にも長けていたといわれています。初めてシャルル7世に面会した際には、自身が彼を王にするために神から遣わされたと説明し軍への入隊に成功しました。

また、入隊する際にはシャルル7世の義理の母である公妃ヨランド・ダラゴンに自身のための甲冑や馬、旗を用意させています。これは通常では考えられない好待遇でした。

ジャンヌ・ダルクは交渉が上手だった
画像:Encyklopedia Internautica

後の異端審問では「神の恩寵を認識していたか?」という質問に対して、「恩寵を受けていないのであれば神が私を無視しておられるのでしょう。恩寵を受けているのであれば神が私を守ってくださっているのでしょう」という神の目線に立つことでどちらとも取れない回答をしています。

当時は人間が神の恩寵を認識することはできないといわれていたため、認識していたと言えば異端者にされていたのです。しかし、認識していなければ虚偽によって人々を欺いた罪に問われるという答えようのない質問でした。

ジャンヌのこの回答は知的で機知に富んでおり、彼女が非常に優秀な頭脳の持ち主であったことを示す逸話であるとされています。

 

⑨ジャンヌ・ダルクは首に矢が刺さっても戦いに出掛けた

ジャンヌの勇敢さを示す逸話は数多く残されています。ある時彼女は戦場で首に矢を受け重傷を負いました。普通であればとても戦えるような状態ではありませんが、ジャンヌは次の日には戦線に出てます。

また、ある時は石矢で脚を撃ち抜かれましたが、戦線を離脱することなく最後まで指揮を取り続けたといいます。

ジャンヌ・ダルクは首に矢が刺さっても戦いに出掛けた
画像:The assault on Paris

他にも梯子を上っているジャンヌに投石器の攻撃が命中しましたが、彼女は勇敢に戦い続けたといわれています。

神のお告げを聞いた巫女としてだけでなく、勇敢な兵士として戦う姿勢が当時のフランス軍人たちの心を打ったに違いありません。

 

⑩ジャンヌ・ダルクは美人ではなかった

映画やゲームなどの創作作品ではジャンヌ・ダルクは美少女として描かれることが多いです。しかし、伝承ではジャンヌ・ダルクは美人でもブスでもなかったといわれています。

また、ジャンヌ・ダルクの容姿を知るための資料は残されておらず、彼女を描いた絵画も想像の産物に過ぎません。

ジャンヌ・ダルクは美人ではなかった
画像:Albert Lynch

英雄とされる偉人は美化して伝承されることが多いといわれています。それでもジャンヌは美人でもブスでもないとされていることから、本当に美人ではなく良くても平均的な顔だったということなのでしょう。

しかし、美人でなくとも兵士たちを鼓舞できたのですから、ジャンヌのカリスマ性は本物だといえます。ちなみに着用していた鎧からジャンヌの身長は158センチメートルほどだったことがわかっています。

 

⑪ジャンヌ・ダルクは農民から貴族になった

農家の娘として生まれたジャンヌでしたが、その活躍を認められて入隊後わずか半年ほどで家族ともども貴族になっています。当たり前のことですが農家の生まれの10代の少女が、このような早さで貴族に昇格されるのは異例のことでした。

ジャンヌ・ダルクは農民から貴族になった
画像:Jean Auguste Dominique Ingres

これにより最初はジャンヌを軽視していた貴族たちも彼女の存在を認めざるを得なくなったのです。ジャンヌという少女がどれほど評価されていたのかがよくわかる逸話です。

 

⑫ジャンヌ・ダルクが捕虜になった時シャルル7世は助けようとしなかった

ジャンヌはフランス軍に入隊してから一年ほどが経った頃、「コンピエーニュ包囲戦」においてブルゴーニュ公国軍の捕虜になってしまいました。当時は捕虜を救い出す際には身代金を支払うのが一般的でしたが、シャルル7世はこれに応じず、ジャンヌを助けようとはしなかったのです。

ジャンヌ・ダルクが捕虜になった時シャルル7世は助けようとしなかった
画像:Jules Eugène Lenepveu

彼女によって王に即位したはずのシャルル7世が結果的にジャンヌを見殺しにしたことは、現在でも非難の対象となっています。母国フランスとシャルル7世に見捨てられたジャンヌは、その後何度も自殺を図っています。

 

⑬ジャンヌ・ダルクの身代金を払ったのは敵国だったイングランド

シャルル7世に見捨てられたジャンヌを救い出したのは、何と敵国であるはずのイングランドでした。フランスがジャンヌの身代金を支払わないことを知ったイングランドは、代わりに彼女の身柄を引き取ったのです。

ジャンヌ・ダルクの身代金を払ったのは敵国だったイングランド
画像:Dante Gabriel Rossetti

この取引にはイングランドの貴族ベッドフォード公と司教のヘンリー・ボーフォート枢機卿が介入しており、多分に政治的・宗教的な思惑がありました。そして、この取引が後のジャンヌの運命を決定付けることになってしまったのです。

 

⑭ジャンヌ・ダルクの異端審問は政治のために行われた

イングランドに身柄を引き取られたジャンヌは異端者の容疑をかけられ、異端審問を受けることになります。これは当時のイングランド王ヘンリー6世の代行を務めていたベッドフォード公が、シャルル7世の王位継承に異議を唱えるためでした。

ジャンヌ・ダルクの異端審問は政治のために行われた
画像:Paul Delaroche

ベッドフォード公はジャンヌが異端者であると認められれば、異端者の助けによってフランス国王に即位したシャルル7世を失脚させられると考えたのです。

こうして開始されたジャンヌへの異端審問ですが、その内容はとても裁判と呼べるものではありませんでした。そもそもジャンヌが拘束されるだけの物的証拠や法的根拠がなかったからです。

 

⑮ジャンヌ・ダルクの異端審問は不正のオンパレードだった

ジャンヌの異端審問では本来教会から認められている弁護人を付ける権利さえ与えられませんでした。さらに法廷にはイングランド側の人間しか出席を許されず、ジャンヌのために証言するフランスの聖職者は存在しなかったのです。

また、法廷記録の多くがジャンヌの不利に働くように後から改ざんされていたことがわかっています。

ジャンヌ・ダルクの異端審問は不正のオンパレードだった
画像:Rémih

イングランド側の聖職者も政府によって脅迫されており、審問官もジャンヌの味方をすれば殺すと脅されていました。最終的には字が読めないジャンヌを偽って、異端者であることを認める書類にサインさせています。

こうして英雄ジャンヌ・ダルクは、教会に背く異端者であったという判決が下されたのでした。

 

⑯ジャンヌ・ダルクが処刑された理由は男装

異端審問の結果、異端者とされたジャンヌでしたが、それだけで死刑になったわけではありません。彼女が処刑されることになった原因は男装でした。

当時の異端者への処刑は、異端を認めた者が罪を悔い改めずに再度過ちを犯した際に執行されていました。そして異端に該当していた男装をジャンヌは止めなかったのです。

ジャンヌ・ダルクが処刑された理由は男装
画像:Hermann Stilke

異端者の汚名を着せられたジャンヌは一度は普通の女性の服を着用するようになります。しかし、それ以来ジャンヌを監視していたイングランドの獄卒から暴行を受けるようになってしまったのです。

男たちから身を守るために男装をせざるを得なかったジャンヌに対して教会は、再び異端の罪を犯したとして死刑判決を下します。

 

⑰ジャンヌ・ダルクは埋葬もされず川に流された

ジャンヌ・ダルクの処刑はルーアンのヴィエ・マルシェ広場という場所で行われました。彼女は高い場所に縛られ、せめてもの情けに掲げられた十字架に祈りながら火あぶりの刑に処されたのです。

役人たちはジャンヌが生きていたという噂が立たないように、黒く焦げた彼女の遺体を大衆の前に晒し、再度火を付けた後に灰になるまで燃やし尽くしました。

ジャンヌ・ダルクは埋葬もされず川に流された
画像:pixabay

そして、最後は埋葬もせずに残った灰をセーヌ川に流したのです。死刑執行人のひとりであるジョフロワ・セラージュは、その時のことを「地獄を見ているようで、ただただ恐ろしかった。」と語っています。

聖少女と呼ばれた19歳の少女の死に様としては余りにも無残であり、非業の死であったといえるでしょう。

 

⑱ジャンヌ・ダルクが処刑された悲しみから大量殺人鬼になった人物がいる

フランス軍においてジャンヌと共に戦った一人に、「ジル・ド・レ(ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル)」という人物が存在します。ジル・ド・レはフランスの貴族であり、ジャンヌと並んで英雄視された人物でした。

しかし、敬愛していたジャンヌの死後、彼女を救わなかった神への信仰を捨てて悪魔崇拝者となってしまいます。

ジャンヌ・ダルクが処刑された悲しみから大量殺人鬼になった人物がいる
画像:Éloi Firmin Féron

ジル・ド・レはこの世に悪魔を召喚するために、罪のない子どもの心臓を生贄に捧げるようになります。そして最終的には300人以上の命を奪う狂気の大量殺人鬼へと変貌したのです。

後期のジル・ド・レは快楽殺人者であったため、決して擁護することはできません。しかし、彼もまたジャンヌの死によって人生を狂わされた人物のひとりに違いないのです。

 

⑲ジャンヌ・ダルクの死から25年後に復権裁判が行われた

ジャンヌの死から25年後、彼女の名誉を守るための復権裁判が行われました。この裁判はフランスの異端審問官とジャンヌの母イザベルによって要請され、過去の異端審問が正当なものだったのかを再検証することになったのです。

ジャンヌ・ダルクの死から25年後に復権裁判が行われた
画像:Statue of Joan of Arc in Rouen, Владимир Шеляпин

この裁判はヨーロッパ各地から100人以上の聖職者が集められ、不正のないように慎重に進められました。その結果、ジャンヌを異端とした判決には全く根拠がなく、無罪であったという判決に塗り替えられたのです。

こうしてジャンヌ・ダルクは殉教者としてカトリックの象徴的存在になり、現在でも最も有名な聖人のひとりとして語り継がれています。

 

⑳ジャンヌ・ダルク生存説が存在する

ここまでご紹介したのが一般的に知られているジャンヌ・ダルクの物語です。しかし、ジャンヌには身代わりを立てて処刑を免れていたとする生存説が存在します。

ジャンヌが処刑されてから5年後の1436年にジャンヌを名乗る女性がフランスのロレーヌ地方に現れたという記録が存在しています。しかも、その人物はジャンヌの兄たちと面会し、彼らが本人だと認めたともいわれているのです。

その後、この人物はロレーヌ地方の領主ロベール・デ・ザルモアーズと結婚し、幸せに暮らしていたとされています。

ジャンヌ・ダルク生存説が存在する
画像:Harold Piffard

しかし、噂を聞きつけた教会によって裁判所への出頭命令が下ると、女性は姿を眩ませ二度と戻ることはなかったといわれています。

ジャンヌ・ダルク生存説は現在通説としては扱われておらず、都市伝説の域を出ないといわれています。しかし、当時は神のお告げを聞いた巫女の影響力は強大であり、神の裁きを恐れたイングランド教会の関係者の協力により身代わりは十分成立したとする意見も存在します。

出典参考:wikipedia
画像:Albert Lynch
 

いかがでしたか?フランスの聖少女ジャンヌ・ダルクについてご紹介しました。彼女は名誉の殉職を遂げたのでしょうか?それとも生き延びてひっそりと幸せな一生を終えていたのでしょうか?

今となっては誰も真実を知ることはできません。